2009.10.22
【次代への名言】信長と秀吉編(6)(msnニュース)
■「人を切ること、秀吉嫌ひにて候」
豊臣秀吉は、いくつかの書状のなかにそう記している。天下を統一するまでの彼は確かに流血を避けるところがあり、織田信長とは対照的−の観があった。そんな2人のちがいがきわだった一つの例が甲州の雄・武田勝頼への対応だろう。
長篠の戦い(1575年)で信長は、倍する軍勢とその圧倒的な火器(鉄砲)の威力で、父、信玄ゆかりの騎馬軍団をほこる勝頼軍を撃破した。「数年の鬱憤(うっぷん)を散じ候」。合戦後、上杉謙信にあてた信長のこの書簡は、さらにこう続く。「種々(降伏を)懇望せしむるといえども、攻め殺すべき覚悟に候、赦(ゆる)さず候」
(前文引用)
信長の野望:かねたん、いしだみつにゃん…“ゆるキャラ”が戦国武将で参戦
直江兼続がモデルの「かねたん」や石田三成の「いしだみつにゃん」などの“ゆるキャラ”が、PC向け歴史シミュレーションゲーム「信長の野望・天道」(コーエー)に武将として登場した。
詳しく...
2009.10.21
【次代への名言】信長と秀吉編(5)(msnニュース)
■『「けしからぬ!」と信長様は激怒なさり、秀吉様はとほうにくれた』
豊臣秀吉は少なくとも2度、主君・織田信長の逆鱗(げきりん)にふれたことがある。
最初は1577年。上杉謙信封じのために北陸の守備を命じられたにもかかわらず、無断で帰国してしまったのだ。冒頭は、てんまつを伝える『信長公記(しんちょうこうき)』の現代語訳。原文では「曲事(くせごと)の由、御逆鱗なされ、迷惑申され候」とある。この行動はともに任務にあたった先輩、柴田勝家と折り合いが悪かったから−とされるが、信長でなくとも激怒するだろう。< /p>
(前文引用)
2009.10.20
【次代への名言】信長と秀吉編(4)(msnニュース)
■「何方(いずかた)をたづね候とも、それさまほどのは、又二(ふた)たび、かのはげねずみ、相(あい)もとめがたし」(織田信長から豊臣秀吉の妻、おねへの手紙)
「それさま」はおね(ねね)、ひどい言いようだが「禿(は)げネズミ」とは秀吉のこと。したためられたのは大城郭の建設がはじまった安土に信長が移り、秀吉は近江国(滋賀県)長浜城主だった1570年代後半とされるが、少々説明を& hellip;。
(前文引用)

