桶狭間合戦始末記

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- た子飼いの馬廻り 700 〜 800 名を中核とした兵団であり、それ等は、天文 19 年より、 尾張統一戦で、幾度かの戦闘体験を積んだ軍隊で、その数 2,000 ぐらいと言っても、 戦意に燃える精兵で、組織力、機動力には抜群のものをもっていた。 信長はその機動力と組織力を、地理を知る桶狭間の地で有効に生かせる作戦をたてて いたのである。
5.地の利
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山あり谷あり池沼、深田ありて、大軍の行動もままならぬ桶狭間を決戦地と選んだ のである。 織田信長は、始め、鳴海で決戦を挑むかの姿勢を見せて、今川の大軍を大高、鳴海 戦線に向けさせ、手薄になった後方の今川本隊を奇襲攻撃した。善照寺砦に大将 旗を始め多くの幟を立てさせて、挑発している( 武徳編年集成』 『 )
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6.天の時
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5 月 19 日は、新暦にすると 6 月 21 日で、梅雨の真っ最中である。織田軍は中島砦 から桶狭間に前進中から夕立となり、桶狭間山近くに接近できた。 その夕立は、標高 50m の山頂に屯する今川軍を混乱させ、戦意を失わせていた。 その時、間髪を入れず、突入して機先を制して、戦の主導権を握った。 信長公記』 『 に太田牛一は、 「余りのことに熱田明神の神軍かと…」と書き、あの無神論者とし て有名な信長ですら、戦後に熱田神宮に塀を寄進している。大雷雨の僥倖を受け ている。
7.人の和
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信長のカリスマ性に心服する子飼いの 700 〜 800 名を中核とする 2,000 の機動隊は 一心同体とも言うべきものであった。
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