桶狭間合戦始末記

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- 第四章 地元の古老が語る桶狭間合戦の実相
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- 一、今川義元、織田信長の人物像
1.今川家の背景と今川義元およびその軍団(要旨のみ)
中世という時代(鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦 国時代、約 400 年間)は・氏族の権威が武力をも上回る時 代で、源、平、藤、橘、の血を引くものでなければ、大 臣、大将はじめ高官にはなれなかった時代であった。室 町幕府が衰退して、応仁の乱となり、氏の権威が失墜し て、下剋上、群雄割拠の戦国時代となった。これまで将 軍、管領諸国の守護職として、権勢を振るってきた源氏 の系統である足利、細川、斯波、吉良、一色、土岐等は
今川義元の像 (桶狭間長福寺蔵)
表舞台から消えていった。その一族であった今川氏は・ 遠江・駿河(静岡県富士川以西)の守護であったが、治に 居て乱を忘れず、領国の維持に勤めて来たため、戦国大
名として、その権勢を残していた。今川義元は文武に優れた部将で、今川假名目録(法 律)、領内検地、税制の改正等を行い、領内の安定と中央集権化への途を強めてきた。 三河松平氏の要請もあり、これを口実にして、三河、尾張への勢力拡大を意図、永禄 3 年 5 月(1560)大軍を編成して、尾張遠征のため、兵を進めた。当時は常備軍というの ではないので、戦のある毎に、編成軍を作るのである。所謂中世の主縦関係を定める 寄親寄子制度に基づいて、領内の主要地に知行を認められている在地領主がその知行 に応じて、兵を徴収して参加することにより、編成された軍隊で、(在地領主の知行 一千石で 25 名、1 万石で 250 名程度で、領内の土豪、地侍、名主、農民等である)た とえ、今川軍が 2 万 5 千と言っても、実態は武士一割、土豪、地侍、名主、農民九割 での寄り合い所帯で、質は、その錬度、組織力、機動力、戦意等については間題があ り、戦いが順調に進み、数に物言わせて押している時は良いが、戦局が急旋回した場 合、その隊伍を直に整えて対応するのがむずかしく、バラバラになる可能性が高い。
2.織田氏と織田信長、その兵団
織田家は、越前国(福井県)織田郡織田の織田剣神杜の 神官の系統であるといわれている。守護の斯波家に仕え ていた。斯波家が尾張国の守護職を兼任した時、尾張に 移住したのではないかと言われている。織田家の名が始 めて尾張に見えたのは、応永 9 年(1402)である。織田家 が尾張に定着したのは、応仁の乱の( 1467 〜 1477)時代 で、岩倉の織田伊勢守敏広(守護代)清須織田大和守敏定
織田信長 (豊田市長興寺蔵)
(小守護代)の時からである。信長の系統は、清須の織田 大和守家に仕える三奉行の末席の家柄で、津島近くの勝
幡に居を構えていたという。普通であれば、日本歴史の表舞台に華々しくその活躍振
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- りを紹介される家柄ではない。(今川は遠江、駿河 2 国の守護である) 信長の祖父の信定、父の信秀が優れた人物で、その武力はもちろん、経済に見識が あり、津島港を開発し、その財力で那古野に進出、熱田港を整備して、伊勢航路を拠 点としてより、財政力を豊かにした。それにより、古渡城、末森城を造築して勢力を 延ばしていった。実力は本家の織田家を上回っていた。そのような環境の中で育った 信長は、時代を読み取る鋭い感覚と英知をもっていた。彼の心中で最も大きく渦巻い ていたのは、中世的な権威に反発、これを改革して、新しい社会体制を作ることであ った。そのため、少年の頃から、城主の若様でありながら、城外に居て領内の若者と 共にする時間が多かった。衣服も羽織、袴を脱ぎ捨てて、村の若者と同じような格好 をし、その上、腰にヒョウタンや火打石の袋を 7,8 個ぶら下げていたという。領内の 若者を集めて、朝から早馬、竹竿を持っての槍(3 間半=6m20cm)の稽古、鷹狩に名を 借りての戦の訓練、情報伝達の練習、夏は水泳、馬の遠乗りは地形偵察等(現代の軍 隊教練)を行って、子飼いの軍隊を作っていたのである。当時としては「桁外れ」の ことをしていたので、皆は「大うつけもの」 「尾張のバカ若様」と言って嘲笑してい たのである。 天文 21 年( 1552)の父信秀の葬儀の式場(万松寺) で、来賓、親族、家臣数百人が正装で居並ぶ中、 遅れて来た信長は、参列者に一瞥することもなく、 ツカツカと正面に歩いて、抹香を手掴みにするや いなや、父の位牌にパッと投げつけたと言う。居 並んでいた人々は「大うつけ」は本当だと評判に なったと言う。
信秀墓
3.織田信長の軍隊
織田信長の軍隊は、前に申したとおり、信長が「大うつけ」と言われながらも、乗 馬、水泳、鷹狩、槍の稽古と共に体を鍛錬した領内の若者 700 〜 800 名を中核とした 軍隊であった。天文 21 年父信秀が死ぬと、清須城の織田、兄の信広、弟の信行、岩 倉の織田本家が、次々と攻撃してきた。信長は例の子飼いの 700 〜 800 を中核とする 兵で、萱津、稲生、浮野等で転戦、次々とその組織力、機動力、旺盛な戦意で圧倒、 永禄 2 年、尾張国を統一してしまった。(この年、上洛、将軍に面接、尾張統一を報 告している) 幾多の実戦体験を積んだ信長軍団は、中核隊を馬廻り隊と名づけ、極めて精鋭で、 力を誇っていた。この部隊はやがて、兵、農を分離して、戦闘専門の集団と進化して いった。その過程で、道路の改修、関所(京まで 400 の関所)・関税の廃止、寺社の独 占権としていた物の生産販売権(座)を廃止、開放して、楽市、楽座制を布いて、商業 の大衆化、兵農を分離して、農民を村に定着させて、農業生産に従事させた等、近代 化への途を開いていったのである。
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- 馬廻りの主な人 柴田勝家・佐久間盛重・佐久間信盛 前田利家・佐々成政・毛利義勝・川尻与兵衛・服部小平太・生駒勝介・池田恒興・ 水野帯刀・丹羽長秀・津田左馬之助・飯尾尚悟・中河重政・蜂谷頼隆・猪子次左衛門 ・千秋秀忠・佐々政次・野々村三十郎・岩室長門守・長谷川喬介・加藤新三郎 毛利河内・木下雅楽助・中野金右ヱ門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼 人
二、今川義元尾張進攻(何故尾張へ進攻したか)
1.上洛説
衰退した足利幕府を復活するため上洛中、桶狭間で織田信長の奇襲に合い、武運つ たなく討ち死にしたと言う説。 イ) 上洛する意図であれば、幕府関係者、朝廷、公卿衆に事前の連絡が色々とな されているはずであるが、それらしい形跡がない。義元の母は、御中門の出身 であるため、また、富士見物で、駿河に下った公卿は多く、義元は公卿側にも いろいろなつながりがあったが、事前工作が行われていないことは、この尾張 進攻では、上洛までは考えていなかったのではないか。 ロ) 2 万 5 千の大軍の遠征は、後方支援が極めて重要である。その見通しが立た ねば、上洛は不可能であり、且つ遠征軍の大部分は、農民である。一秋の収穫 を無視した遠征は、駿遠の生産力を下げ、士気の低下は著しくなるであろう。(2 万 5 千の隊、兵;米 6 合/1 日、馬;大豆 2 升/1 日、1 日米、大豆で 350 俵以上は 必要)上洛するならば、通過する領主の協力がなければ、その収集は不可能で ある。協力している形跡がないと言われている。
2.三河安定説
西三河が不安定であった。それを安定するためには、隣接する尾張、特に、大高、 鳴海を確保しておく必要があった。永禄 13 年 5 月 8 日は、義元は三河守に昇進した と言われている。よって、三河安定が必要であったという学者もある。
3.尾張制圧説
天文 21 年父信秀死亡、3 月、万松寺において葬儀。 来賓、親族、家臣等数百名が正装で威儀を正して居並 ぶ中、遅れて来た喪主信長は、常着のまま現われ、正 面に進み、抹香を手掴みにするや、父の位牌にパッと 投げつけたという。前からの奇行と合わせて、信長は 「大うつけ者」のレッテルを多くの者に裏付けた。尾
鳴海城趾
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- 張の将来を不安視する者も出てきた。第一に笠寺の城主戸部新左衛門は、今川に通ず るようになった。第二に鳴海城主山口左馬之助父子も信長に悲観して、大高城、沓掛 城を誘って今川側に寝返った。今川は、笠寺、鳴海、大高、沓掛城に、夫々今川軍部 隊を入れた。戸部と山口父子は、後刻、信長の巧みな謀略によって、義元に刺殺され てしまった。 信長にとって、大高、鳴海地帯は、織田側の大切な経済拠点である熱田港を維持す るために、極めて重要な地域であり、また、大高、鳴海地帯が今川の勢力圏になれば、 その東にある織田の領地である知多郡との交流が遮断されることになる。どうしても 確保しておきたい地帯である。そのため、信長は大高城に対し、丸根、鷲津の砦を、 また、鳴海城に対しては、丹下、善照寺、中島の三砦を構築して、付城とした。 今川側は、大高城、鳴海城に兵を入れて、この地帯に強力な地盤を作ろうとしたが、 織田側の付城に妨害されて動けなくなった。また、強い監視のため、兵糧の入手、城 の維持も困難になってきた。今川側にとって、この地帯は、織田方を分断し、経済拠 点の熱田に出入りする伊勢湾交易の船を監視する上にも、軍事的重要地点である。三 河尾張に勢力を拡大して、念願する上洛の目的を果たすための拠点を築く上にも必要 として、永禄 2 年ごろから尾張遠征を計画、永禄 3 年 5 月 12 日、2 万 5 千の大軍を率 いて駿河を出発したのである。(塗輿に乗って出発したという) また、弥富の荷之上の服部水軍は舟千隻を大高沖へ集結させ、応援に来た。
弥富の荷之上
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服部家
5 月 17 日、池鯉鮒(知立)に到着(本隊の一部瀬名氏俊 200 桶狭間に進出。19 日の 本陣を設営する)
5 月 18 日、沓掛城に入る。午後作戦会議。同日宵、松平元康軍大高城に兵糧を入
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れる。
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5 月 19 日、早朝、織田側の丸根を松平元康、鷲津を朝比奈泰朝攻撃。10:00 陥落す る。 同日 8:00 義元塗輿に乗り 5,000 を引率、 沓掛城を出発。 大高道を通り桶狭間へ向う。 11:00 ごろ、義元、桶狭間の陣地に入る。その前に今川本隊の前衛、松井宗信軍 幕山から高根山に、井伊直盛軍幕山から巻山に西北に向け着陣。総勢約 2,000。 11:30 ごろから降り出した夕立は、西より降り始めて、12:00 ごろ、本降りとなり、 夕立の中心が桶狭間になり、稲妻が激しく光り、雷鳴の轟音四方に響く。
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- 三、受けてたつ織田信長
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5 月 18 日、今川軍の大軍、尾張侵入の報に、部将等、清須城に集る。 同日、夕刻、丸根、鷲津より早馬。19 日早朝、両砦が今川軍に襲撃される模様と の情報あり。 各部将、清須城に登城、信長からの出動命令を待つ。 部将たちは信長の出動命令を受けるために登城したが、信 長は雑談するだけで、今後の作戦については一言も触れな かった。夜も更けたので帰宅を促して散会になった。 その時の模様を『信長公記』は次のように述べている。 其 「 夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色々世間の御雑談 迄にて、既に深夜に及ぶの間、帰宅侯へと、御暇下さる。 家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは此れの説 なり」と書いている。
清須城趾
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この時点で信長は丸根方面からの情報のほかに、もう一つ きわめて重要な情報を秘に入手していたのである。この情報は、かねて尾三国境 に潜入させていた簗田出羽守からのもので、 18 日桶狭間山にて今川本隊の一隊が、 「 陣地を構築中である。状況判断よりして、明 19 日午の刻の今川義元の休憩陣地に 相違ないと判断される」というものであった。信長は、かねてから、今川軍が尾 張に侵攻してきた場合は、大軍の行動が大きく阻害される狭隘な山間地帯を通過 する時、その中枢部を急襲して、その命令系統を混乱させることを念頭に考えて いた。この情報は将に向こうから我が術中に入ってきたようなもの。信長の胸中 は決まった。 19 日の午、桶狭間山の今川本陣への奇襲」 「 。折角部将が登城、下令 を待っているのに、何故この胸中を話して諸将の奮起を促さなかったのか。この 当時の領主等は複雑な関係にあった。(誰についていたら安全であるか)疑心暗鬼 であった。 イ) ロ) この戦は、誰が見ても織田側に勝ち目はなかった。 保身の為の内通は、どこでも行われていた。18 日の沓掛城の作戦会議の内容 (丸根、鷲津攻撃)は、同日夕方、丸根に漏れ、宵には清須の信長に届いてい た。 ハ) ニ) ホ) 織田側は、永禄 2 年(前年)漸く尾張が統一されたところで、2~3 年前まで敵 対していた部将も同席していた。 19 日の今川本陣突入作戦、織田の興亡をかけた乾坤一擲の決戦である。この 作戦が漏れた場合は織田の将来はなくなる。 丸根、鷲津から応援を乞われれば、直ちに鳴海附近に兵を進めて、その戦況 を見て、次の策を練るのが普通の対処方法であるが、信長は一兵も動かさなか った。下手に動いては、今川方は大軍であるから、巻き込まれる愁いもあるが、 この際は既定の作戦を変更させることなく、予定通り進行させて、19 日の桶狭 間山急襲を実行したかったのである。相手は大軍である。攻撃の選択肢がい
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- くらもあるわけではない。今川本陣が、山、谷、池沼、深田の複雑に込み入っ た桶狭間山に休息するのは、千載一遇のチャンスである。願ってもない決戦場 である。信長は、はやる心を落ち付けて、部将の嘲笑をも甘んじて受け、この 一戦に己の全エネルギーを賭けていたのである。
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19 日早朝(4:00 頃と言われている)、丸根、鷲津両砦より、只今、今川軍の襲撃始 まるとの報告を受けた。信長は飛び起き、 人間 50 年、 「 下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を 得て減せぬ者あるべきか」と舞をし、螺を吹かせ、鎧 を召すや、出陣式もせず、城を飛び出した。続くもの は小姓の岩室長門守、長谷川橋介、佐橋藤八、山口飛 騨守、加藤弥三郎の 5 名のみであった。(部将には夫 々の伝令を走らせ、10:00 に善照寺砦集合を命じてい るものと考えられる)
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信長は先の 5 名をつれ、熱田まで 12k を約 3 時間かけ ている( 信長公記」では1刻とある) 12k、3 時間は 「 。
清須の信長像
徒歩でも可能な時間である。なぜ 3 時間もかけたか。これも信長の清須付近に潜入 する今川のスパイの目を意識しての行動である。間道に入り、ジグザグに行進して 行く先を不明にしたのである。(一説によれば、信長逃亡説も流れたとか)隊伍を整 えて清須城を出発しなかったのも、また、出陣式も敢えて行わなかったのも、敵の スパイの目を意識しての行動と思考せられる。
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8:00, 信長熱田神宮到着。南門上知我麻神杜より大高方面に、黒煙り二本上がるを 見る。丸根、鷲津両砦の陥落を知る。 10:00 善照寺砦に到着。附近に約 3,000 の兵集結。簗田出羽守よりの報告。 イ)今川義元沓掛城 8:00、5,000 の本隊を引率、自は塗輿に乗り出発。 ロ)今川義元本隊、大高道を桶狭間へ、本隊前衛隊約 2,000、桶狭間西方の稜線に 次々と着陣しつつあり。と、次々に情報をいれる。
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信長、善照寺砦の周囲に大将旗を始めとする幟旗を一様に立て、信長この地にあり と鮮明にする。守将佐久間信盛に 1,000 の兵を与え、この地を絶体離れぬなと命じ て守らせる。次いで、佐々政次、千秋秀忠に 300 を与えて、東 南の地、桶狭間の山に着陣した今川本隊の前衛隊に陽動作戦を 命ず。(信長本隊前進の支援部隊)
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織田軍近くの扇川附近に散開せしむ。 今川義元本隊 1,500、11:00 桶狭間山に着陣との情報を受ける。 信長自らは中島砦に前進する。中島砦は扇川と手越川との合流点 の低地にある砦で、今川方本隊前衛陣地より望見できる砦である。 何故この様な敵から望める低地に下りて来たか問題点がある。
やいたばし
中島砦跡
(中島砦に前進したのは信長と幕僚親衛隊で、大部分は現焼田橋付近に集結させたで あろう) 。
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- 以下 2,3 間題点を検証してみる。
イ) ロ)
これからの桶狭間突入戦は、織田家の興亡をかけた一戦である。己の目で簗 天保年間の『鳴海絵図』を見るに、善照寺砦の北、東は大きな田面となって いて、同道は畦道しかない。(本田となっているので、恐らく合戦当時も同面
田情報の真偽の程を確認したかった。
積とはいえないが、かなりの田面をなしていたであろう。道のない田面を馬廻 りを主体とする兵力が通過して、北にある鎌倉街道に出、大回りして南進、桶 狭間に出るには時間がかかりすぎる。今川本隊は午の小休止である 13:00 を過 ぎれば、大高方面に出発する可能性が多分にある。遅くとも確実に 12:30 まで には、攻撃態勢を整える必要がある。また、鎌倉街道に出ることは、沓掛に通 じ、今川軍或いはそのスパイに遭遇する恐れがあるなど、かなりの危険要素が ある。佐々、千秋軍の陽動作戦により、今川前衛隊の目は、そちらに向けられ ている筈。中島砦より、折からの干潮の扇川 (南岸の堤防が高く、北岸の堤 防が低く作られていた)を通り、山陰に入った処で丘に上がり、山間の道を抜 けて行けば、40 〜 50 分で桶狭間の山麓に着ける。この方が確実と考えたので はないか。
四、織田信長中島砦より桶狭間に進撃
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前田利家等馬廻りに進入路の開拓を命ず。 出発に当たり、将兵の志気の鼓舞と、突入時の注意をする。信長公記―「アノ武者 等は」と……桶狭間の西の山に着陣する今川本隊の前衛隊を指差しながら……「宵 に大高城に兵糧を入れ、 寝ずに丸根、 鷲津両砦を攻撃して疲労している武者である。 こちらは新手である。恐れるに足らず。運は天にあり。……(アノ武者等は松平元 康軍であるといっているのである。信長は情報で目前の敵は今川本隊と知っている 筈である。承知の上で、我将兵を奮起させる為に言ったのか、その点が不 る) 次に、 「敵が懸かってくれば引け、敵が退けば追撃せよ。(ゲリラ戦)首を取るな。 突き倒してどんどん進め。此の戦に参加した者は家の面目であり、末代にその高 名を残すことになる。只励めよ」と訓示をしている。ここで注目すべきは、 「敵が 攻撃してくれば退き、後退すれば追撃せよ」と、柔軟な遊撃戦の手法を命じてい ることである。この段階では、今川義元の首を取ることは考えていなかったので ある。その頃、西南の空に黒雲が沸き立ち、ポツポツと雨が降ってきた。 扇川から陸に上がり、神明の山間に入り、現在の天神山の北、東陵中学の付近から 名鉄有松駅を通り、はへ山の山麓に沿って武路山の谷間(釜ケ谷)に至り、今川本 陣突入の機を窺う。 明であ
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織田軍が中島砦を出撃するころ、南西の空 に夕立雲が湧き立ち、織田軍を追いかける ように流れ、大粒な雨は織田軍の背中を流 していた。織田軍が武路に到着するころ、 本降りとなり、稲妻は中空をかけ廻り、雷 鳴は四方の山にこだまして轟き渡り、騒然 となってきた。 夕立雲は見るまに、桶狭間の空を覆い、晝
大正頃の桶狭間山
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尚暗く、怪しい雲行きになってきた。沛然と降る大粒な雨は車軸を濡らし、稲妻 は激しく光り、雷鳴はその数えるを知らず大空に轟いていた。桶狭間山(海抜 50m) には、今川本陣 1,500 が屯している。手々には 5m の先に鋭利な槍が光っている。 身には鎧兜をつけ、腰には刀を差している。標高 50m の山上は雷の絶好な直撃場 となった。これは不自然のことではない。数万ボルトの光の塊は、物凄い音とと もに、桶狭間山の木々の梢を叩き砕いていた。馬は嘶き、旗指物は右往左往に動 いて 大混乱
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いる。織田信長の下には、放った斥侯より、今川本隊は思わぬ落雷により、 との情報が次々と寄せられていた。
織田軍は、桶狭間山より直線距離にして 800m 位の北の武路の山陰の低地に這いつ くばって大雷雨を凌いでいる。 突撃の機を窺っていた信長は、雷鳴の遠のくや、間髪を入れず、今川本隊の右翼軍 に突撃を命じた。時 13:30 頃。この時の状況を、信長の身辺護衛役として従軍し ていた太田牛一( 信長公記』の作者)は、次のごとく記述している。 『 「俄かに急 雨石氷を投げ打つ様に、敵の顔に打ち付くる。味方の方に降りかかる。……余り の事に熱田大明神の神軍かと申し侯なり。空晴るるを御覧じ、信長槍を押っ取っ て大音声を上げて、スワかかれ、かかれと仰せられ、黒煙立てて懸かるを見て水 をまくるが如く後方ヘクワット崩れたり。弓、鑓、鉄砲、幟り指物、算を乱すに 異ならず」 ここで、少し話が前に戻るが、合戦の時の夕立について、江戸時代の史記『武徳 大成記』と『武功夜話』に書いてあるので、紹介する。 『武徳大成記』は、将軍綱 吉の命で、老中が中心となり、当時の有名学者を集め、今迄の史実の誤りを校訂 するために編集された史記で、桶狭間合戦の夕立について「熱田の方より、黒雲 忽ち起こり、白雨瀕至、風砂面を撲て雷電魂をうばう。今川の兵士走り乱れて各 営中に縮こまり居る。信長衆に命じて言 う。他陣に向かうことなかれ義元が本陣 を襲えと……」 また 、 『武功夜話』には 、 「数日来の景気 厳しく、この辺りの木立も絶えて無く、 中天に陽は輝き待ち居る頃合い……佐々 党我等鳴海に転じて善照寺にたどりつき
現在の桶狭間山遠景(南より)
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- たるに人数僅か 80 有余人。中島砦は駿河勢、満んたれば、なす術を知らず。折り しも大師獄辺り鬨の声天地に轟き渡り、四辺真暗と相成り。雷をともない、天地 鳴動してやまず、その場に立ちすくみ茫然たれば、彼方狭間辺り上り勝鬨天地に 鳴き渡り、かれこれ敵味方なる哉定めがたし……」
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総大将の本陣(現在で云えば軍司令部)は休息地といえど両翼前後に隊を配置、その 前に二重三重の歩哨線があって厳重に警戒されている。 『信長公記』を見ると、織 田軍がかなり近くに寄られていても知らなかった様子である。軍馬を交えた部隊 2,000 が間近に進入するを知らなかったということは、普通状態では、先ずあり得 ない。 イ) ロ) ハ) ニ) ホ) 砂煙が濛々と上がり、軍馬の嘶き、蹄の音が聞こえる。 鎧の擦れ合う音、刀、槍の擦れ合う音、何か騒々しい気配がある。 当時は山林、原野が多い。当然 2,000 人が通れば、雉、野鳩、野鳥、狐、野 良犬、猪、兎等が飛び出している。 林、山林を通ってくれば、ある一線だけ木々が風の無いのに、或いは風の反 対に、又、不規則にゆれている筈。又、犬が吠えまくって入る等。 筆者は戦場で数十回の歩哨勤務についているが、集中していれば、枯葉の上 を犬の通るのもわかる。 以上よりしても、織田軍の進撃中は、夕立が激しくなり、稲妻は光り、雷鳴は轟い
て、あたりを震撼させていた頃で、今川も自らの身を護ることに注意を奪われ、織田 軍への哨戒が等閑になっていたものと考えられる。
五、織田軍の今川本陣突入
イ) 話を元に戻し、織田軍の今川本陣突入のクライマックスに入る。突撃の機を 窺っていた信長は、斥侯の報告により、今川軍の混乱を知り、夕立の遠のくと 見るや間髪を入れず、今川本隊の右翼軍に対して、攻撃命令を下した。大雷雨 に自失茫然状態にあった今川右翼隊は、突如として麓より槍をしごいて現れた 織田軍に仰天。戦意を失い、武器をも捨て逃げる有様であった。本陣方へ一目 散逃げる今川軍を追撃していた信長は、桶狭間山と思われるなだらかな中腹に 立派な塗輿の置いてあるのを目敏く見つけた。義元の輿と直感した信長は、大 声で「旗本はここなり。皆者是へ懸かれ」と命令を下した。時に、永禄 3 年 5 月 19 日午後 2 時頃であった。信長の身辺護衛として戦に参加して獅子奮迅し た一人、太田牛一は次のように記述している。 「初めは 300 騎ばかり真丸にな って、義元を囲み退けるが、二、三度、四、五度帰し合わせ々々、次第々々に 無人になりて、後には五十騎ばかりになりたるなり。信長も下立って、若武者 共に先を争い、つき伏せ、つき倒し、いらだったる若者ども、乱れかかってし のぎをけずり、鍔をわり、火花をちらし火焔をふらす。然りといえども、敵味
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- 方の武者、色は相まぎれず。爰にて御馬廻、御小姓衆、歴々手負、死人員を知 らず。服部小平太、義元にかかりあひ、膝の口切られ倒れ伏す。毛利新介、義 元を伐臥せ首をとる……運の尽きたる驗にや。おけはざまと云う所は、はざま くみて、深田足入れ、高みひくみ茂り、節所と云う事限りなし。深田へ逃入る 者は所をさらずはいずりまわるを、若者ども追付き々々、二つ、三つ宛手々に 首を取り持ち、御前へ参り侯。首は何れも清須にて御実験を仰出だされ、義元 の首を御覧じ、御満足斜めならず。もと御出で候道を御帰陣候なり」 ロ) 当時の作戦の慣例として、総大将は馬廻りに護られて第一線の 700 〜 800m 後方に在って指揮をとっていたといわれる。義元の塗輿を発見した時、義元近 しと、間髪を入れず本陣突入の命令を変更できたのは、常識をこえて信長が先 頭にあったからでこそ、速やかなる対応ができ、義元の首をとることができた のである。それが慣例どおり信長が、後方 700 〜 800m に居たとしたら、果た して義元の首をとる機敏な行動がとれたかどうか疑間である。義元は 300 名の 旗本に守られながら、大高、或いは沓掛城に逃げ得たかも知れない。
今川義元最後の地田楽坪
(梶野一家蔵)
六、織田信長の勝因
1.戦意
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織田側は、織田氏の興亡にかかわる戦として、決死の馬廻りを中核とした部隊の戦 意極めて高いものがあった。出陣の時、信長が舞った「人間 50 年下天のうちをく らぶれば夢幻の如し…」で、その心意気がうかがえる。
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今川側の軍隊は、数こそ多いが、旧体制の方法により集められた寄合急造軍隊であ り、組織力も戦意も乏しかった。今川義元自身、今尚中世的な氏族権威を払拭で きない人物であった。 「余が 2 万 5 千の大軍を率いて行けば、尾張の大うつけは、 我が膝下に額づくであろう」ぐらいの認識で駿河を出発していたであろう。その ことは、ピカピカの塗輿に乗って指揮をとっていたという、その慢心が油断を生 んだのであろう。これでは、軍団の戦意もあがる筈がない。多くの本は、桶狭間 山上で、近郷の庄屋の祝酒を飲んで浮かれていたと言う。筆者はこの事は、あり 得ないと否定するものだが、義元の油断のあったことは否定できない。
2.戦術
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信長は今川の 2 万 5 千の大軍をなるべく分散させることを一つの目標にしたよう で、丸根、鷲津を前哨戦として、その間に、中島、善照寺、丹下の各砦に、信長 本隊が加わり、最後の抵抗線として決戦を挑むとの流言を飛ばしている節がある。 その為か、今川軍は 1 万ぐらいの兵力を、大高方面に先行させている。又、知多 方面の水野軍に向かう必要もあり、本隊は後方隊(小荷駄隊)を加えて 5,000(半分 は農民)と手うすになり、これも油断か、良い参謀がいなかったのか、本陣の桶狭 間山は、その前衛の陣と中間に長い深田、池沼、湿地帯の在る為、結果的には、 本陣は山頂に孤立した状態であった。兵要地誌の調査不十分であったことは否め ない。この弱点を織田軍に衝かれたのである。この事は、江戸時代の史記『武徳 篇年集成』も指摘している。 信長は「今川本陣が桶狭間山に休息する」との情報を得るや、一点集中攻撃作戦を 成功させるため、部将等にも己の決意を秘匿し、有無を云わせぬ時間刻みの厳し い行動に徹した。 義元には、太原雪斎という軍師が側近に在って、領国の政治、経済、軍事一斉を指 揮していた、有名な甲、相、駿三国同盟も、天文 15 年春の三河掃攻も皆雪斎の指 揮したものである。恐らく、尾張進攻も雪斎のシナリオの一環であったと思われ るが、雪斎は夢半ばにして弘治元年(1555)死亡している。(合戦 5 年前)今川義元 は羅針盤を失ったようなものであった。この雪斎に替わる名参謀がいなかった事 も悲劇の一つの要因であろう。武田信玄の名参謀といわれた山本勘助が『甲陽軍 鑑』に次の様な予測をしている。 「雪斎義元公介添えに御座ありて、公事沙汰万事 の指し引き、あさからざる故……末々は京迄も義元公御仕置きなるべしと各々風 聞にて候へ共、我等共は一段あやうく存知奉る。いはれは雪斎明日にも遷化にお いては、家老衆のさばきよくとも雪斎と申す物知り、さばきよりおとるなりと諸 人かろく存ずべし。さありて雪斎の如くなる長老をまた尋ね給はじ。今川家の事 忝く皆坊主無くしてはならぬ家と、諸人思い候上様に批判申さば扨て、以来あや うき事なりと申し上げた……」と。 雪斎が死ねば、今川家は滅ぶといっている。名将との誉れ高い義元も、始めての
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- 陣頭指揮では心中心細いものがあったであろう。今川軍の中で名部将といわれて いた岡部元信は鳴海城に、朝比奈泰朝は鷲津砦攻撃に、又三浦左馬介は予備軍と して大高方面にあった。義元の帷幄の中には、雪斎に代わりうる名参謀はいなか ったようである。
3.情報収集重視
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信長は大軍に対して、少数で立ち向かうには、敵の行動を事前に知り、それに適 応した作戦を立て、決戦を挑むにしかずと情報に重きを置く。 戦の 2,3 年前より、駿河に間諜を入れて、今川家の三河工作の情報入手に努めて いたようである。 永禄 2 年の暮れ頃より、尾三国境付近に、生駒家を通じ、川並衆、簗田出羽守、 蜂須賀小六、前野将右衛門の一門を潜入させて情報網を構築している。 戦後の論功行賞で、彼らを代表する簗田出羽守が筆頭となり沓掛の 3 千貫文の受 領したことから見れば、戦いを勝利に導いた極めて貴重な情報を入れた事がわか る。 信長は相手の情報を集めることだけではなく、清須に潜入していると考えられる 今川方の間者を意識して時に応じ、事に応じて欺瞞工作、流言、デマを出して間 諜の判断を狂わしている。武将との作戦会議上で、作戦について一言も言わなか った。作戦前には清須籠城説を流したり、出陣時には、小姓 5 名と飛び出し、熱 田まで間道に入り行方をくらまし 3 時間もかけて、信長逃亡説を流している。或 は一方で善照寺砦決戦説を流したり、善照寺砦に到着するや、大将旗、幟類を立 てて信長ここに在りと誇示する。桶狭間に突入する前、佐々、千秋軍に陽動作戦 を命じて注意をここに向ける等色々な手をうって情報を色々操作する戦術を行っ ている。
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4.兵の質
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今川軍の軍団は、中世の寄親寄子制度にもとづいて編成されたものです。駿河、 遠江、三河の主要地を領地と(知行)としている。在地領主が、その知行の石高に 応じて(当時は貫匁制で石に換算して約 1 千石で 25 名、1 万石で 250 名その領内の 土豪、名主、農民を)集めてきたのを編成したのが、今川軍団である。随って部将 クラスは名の知れた武士であるが、直参の武士はきわめて少数で、殆ど土豪や農 民である。 大体、武士 1 割、9 割が農民)寄合所帯の編成軍であるため、組織力、 ( 戦意は乏しいものであった。戦局が順調に進み、兵士数にものを云わせて押して いる時は良いが、一度戦局が変わって、追撃される立場になった時は危うさの出 るのは否定できない。 織田軍は前述のとおり、信長が領内の若者を集めて、戦闘専門集団として訓練し
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- た子飼いの馬廻り 700 〜 800 名を中核とした兵団であり、それ等は、天文 19 年より、 尾張統一戦で、幾度かの戦闘体験を積んだ軍隊で、その数 2,000 ぐらいと言っても、 戦意に燃える精兵で、組織力、機動力には抜群のものをもっていた。 信長はその機動力と組織力を、地理を知る桶狭間の地で有効に生かせる作戦をたてて いたのである。
5.地の利
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山あり谷あり池沼、深田ありて、大軍の行動もままならぬ桶狭間を決戦地と選んだ のである。 織田信長は、始め、鳴海で決戦を挑むかの姿勢を見せて、今川の大軍を大高、鳴海 戦線に向けさせ、手薄になった後方の今川本隊を奇襲攻撃した。善照寺砦に大将 旗を始め多くの幟を立てさせて、挑発している( 武徳編年集成』 『 )
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6.天の時
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5 月 19 日は、新暦にすると 6 月 21 日で、梅雨の真っ最中である。織田軍は中島砦 から桶狭間に前進中から夕立となり、桶狭間山近くに接近できた。 その夕立は、標高 50m の山頂に屯する今川軍を混乱させ、戦意を失わせていた。 その時、間髪を入れず、突入して機先を制して、戦の主導権を握った。 信長公記』 『 に太田牛一は、 「余りのことに熱田明神の神軍かと…」と書き、あの無神論者とし て有名な信長ですら、戦後に熱田神宮に塀を寄進している。大雷雨の僥倖を受け ている。
7.人の和
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信長のカリスマ性に心服する子飼いの 700 〜 800 名を中核とする 2,000 の機動隊は 一心同体とも言うべきものであった。
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