桶狭間合戦始末記

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- 陣頭指揮では心中心細いものがあったであろう。今川軍の中で名部将といわれて いた岡部元信は鳴海城に、朝比奈泰朝は鷲津砦攻撃に、又三浦左馬介は予備軍と して大高方面にあった。義元の帷幄の中には、雪斎に代わりうる名参謀はいなか ったようである。
3.情報収集重視
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信長は大軍に対して、少数で立ち向かうには、敵の行動を事前に知り、それに適 応した作戦を立て、決戦を挑むにしかずと情報に重きを置く。 戦の 2,3 年前より、駿河に間諜を入れて、今川家の三河工作の情報入手に努めて いたようである。 永禄 2 年の暮れ頃より、尾三国境付近に、生駒家を通じ、川並衆、簗田出羽守、 蜂須賀小六、前野将右衛門の一門を潜入させて情報網を構築している。 戦後の論功行賞で、彼らを代表する簗田出羽守が筆頭となり沓掛の 3 千貫文の受 領したことから見れば、戦いを勝利に導いた極めて貴重な情報を入れた事がわか る。 信長は相手の情報を集めることだけではなく、清須に潜入していると考えられる 今川方の間者を意識して時に応じ、事に応じて欺瞞工作、流言、デマを出して間 諜の判断を狂わしている。武将との作戦会議上で、作戦について一言も言わなか った。作戦前には清須籠城説を流したり、出陣時には、小姓 5 名と飛び出し、熱 田まで間道に入り行方をくらまし 3 時間もかけて、信長逃亡説を流している。或 は一方で善照寺砦決戦説を流したり、善照寺砦に到着するや、大将旗、幟類を立 てて信長ここに在りと誇示する。桶狭間に突入する前、佐々、千秋軍に陽動作戦 を命じて注意をここに向ける等色々な手をうって情報を色々操作する戦術を行っ ている。
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4.兵の質
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今川軍の軍団は、中世の寄親寄子制度にもとづいて編成されたものです。駿河、 遠江、三河の主要地を領地と(知行)としている。在地領主が、その知行の石高に 応じて(当時は貫匁制で石に換算して約 1 千石で 25 名、1 万石で 250 名その領内の 土豪、名主、農民を)集めてきたのを編成したのが、今川軍団である。随って部将 クラスは名の知れた武士であるが、直参の武士はきわめて少数で、殆ど土豪や農 民である。 大体、武士 1 割、9 割が農民)寄合所帯の編成軍であるため、組織力、 ( 戦意は乏しいものであった。戦局が順調に進み、兵士数にものを云わせて押して いる時は良いが、一度戦局が変わって、追撃される立場になった時は危うさの出 るのは否定できない。 織田軍は前述のとおり、信長が領内の若者を集めて、戦闘専門集団として訓練し
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