桶狭間合戦始末記

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- 一、今川義元、織田信長の人物像
1.今川家の背景と今川義元およびその軍団(要旨のみ)
中世という時代(鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦 国時代、約 400 年間)は・氏族の権威が武力をも上回る時 代で、源、平、藤、橘、の血を引くものでなければ、大 臣、大将はじめ高官にはなれなかった時代であった。室 町幕府が衰退して、応仁の乱となり、氏の権威が失墜し て、下剋上、群雄割拠の戦国時代となった。これまで将 軍、管領諸国の守護職として、権勢を振るってきた源氏 の系統である足利、細川、斯波、吉良、一色、土岐等は
今川義元の像 (桶狭間長福寺蔵)
表舞台から消えていった。その一族であった今川氏は・ 遠江・駿河(静岡県富士川以西)の守護であったが、治に 居て乱を忘れず、領国の維持に勤めて来たため、戦国大
名として、その権勢を残していた。今川義元は文武に優れた部将で、今川假名目録(法 律)、領内検地、税制の改正等を行い、領内の安定と中央集権化への途を強めてきた。 三河松平氏の要請もあり、これを口実にして、三河、尾張への勢力拡大を意図、永禄 3 年 5 月(1560)大軍を編成して、尾張遠征のため、兵を進めた。当時は常備軍というの ではないので、戦のある毎に、編成軍を作るのである。所謂中世の主縦関係を定める 寄親寄子制度に基づいて、領内の主要地に知行を認められている在地領主がその知行 に応じて、兵を徴収して参加することにより、編成された軍隊で、(在地領主の知行 一千石で 25 名、1 万石で 250 名程度で、領内の土豪、地侍、名主、農民等である)た とえ、今川軍が 2 万 5 千と言っても、実態は武士一割、土豪、地侍、名主、農民九割 での寄り合い所帯で、質は、その錬度、組織力、機動力、戦意等については間題があ り、戦いが順調に進み、数に物言わせて押している時は良いが、戦局が急旋回した場 合、その隊伍を直に整えて対応するのがむずかしく、バラバラになる可能性が高い。
2.織田氏と織田信長、その兵団
織田家は、越前国(福井県)織田郡織田の織田剣神杜の 神官の系統であるといわれている。守護の斯波家に仕え ていた。斯波家が尾張国の守護職を兼任した時、尾張に 移住したのではないかと言われている。織田家の名が始 めて尾張に見えたのは、応永 9 年(1402)である。織田家 が尾張に定着したのは、応仁の乱の( 1467 〜 1477)時代 で、岩倉の織田伊勢守敏広(守護代)清須織田大和守敏定
織田信長 (豊田市長興寺蔵)
(小守護代)の時からである。信長の系統は、清須の織田 大和守家に仕える三奉行の末席の家柄で、津島近くの勝
幡に居を構えていたという。普通であれば、日本歴史の表舞台に華々しくその活躍振
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