桶狭間合戦始末記

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- りを紹介される家柄ではない。(今川は遠江、駿河 2 国の守護である) 信長の祖父の信定、父の信秀が優れた人物で、その武力はもちろん、経済に見識が あり、津島港を開発し、その財力で那古野に進出、熱田港を整備して、伊勢航路を拠 点としてより、財政力を豊かにした。それにより、古渡城、末森城を造築して勢力を 延ばしていった。実力は本家の織田家を上回っていた。そのような環境の中で育った 信長は、時代を読み取る鋭い感覚と英知をもっていた。彼の心中で最も大きく渦巻い ていたのは、中世的な権威に反発、これを改革して、新しい社会体制を作ることであ った。そのため、少年の頃から、城主の若様でありながら、城外に居て領内の若者と 共にする時間が多かった。衣服も羽織、袴を脱ぎ捨てて、村の若者と同じような格好 をし、その上、腰にヒョウタンや火打石の袋を 7,8 個ぶら下げていたという。領内の 若者を集めて、朝から早馬、竹竿を持っての槍(3 間半=6m20cm)の稽古、鷹狩に名を 借りての戦の訓練、情報伝達の練習、夏は水泳、馬の遠乗りは地形偵察等(現代の軍 隊教練)を行って、子飼いの軍隊を作っていたのである。当時としては「桁外れ」の ことをしていたので、皆は「大うつけもの」 「尾張のバカ若様」と言って嘲笑してい たのである。 天文 21 年( 1552)の父信秀の葬儀の式場(万松寺) で、来賓、親族、家臣数百人が正装で居並ぶ中、 遅れて来た信長は、参列者に一瞥することもなく、 ツカツカと正面に歩いて、抹香を手掴みにするや いなや、父の位牌にパッと投げつけたと言う。居 並んでいた人々は「大うつけ」は本当だと評判に なったと言う。
信秀墓
3.織田信長の軍隊
織田信長の軍隊は、前に申したとおり、信長が「大うつけ」と言われながらも、乗 馬、水泳、鷹狩、槍の稽古と共に体を鍛錬した領内の若者 700 〜 800 名を中核とした 軍隊であった。天文 21 年父信秀が死ぬと、清須城の織田、兄の信広、弟の信行、岩 倉の織田本家が、次々と攻撃してきた。信長は例の子飼いの 700 〜 800 を中核とする 兵で、萱津、稲生、浮野等で転戦、次々とその組織力、機動力、旺盛な戦意で圧倒、 永禄 2 年、尾張国を統一してしまった。(この年、上洛、将軍に面接、尾張統一を報 告している) 幾多の実戦体験を積んだ信長軍団は、中核隊を馬廻り隊と名づけ、極めて精鋭で、 力を誇っていた。この部隊はやがて、兵、農を分離して、戦闘専門の集団と進化して いった。その過程で、道路の改修、関所(京まで 400 の関所)・関税の廃止、寺社の独 占権としていた物の生産販売権(座)を廃止、開放して、楽市、楽座制を布いて、商業 の大衆化、兵農を分離して、農民を村に定着させて、農業生産に従事させた等、近代 化への途を開いていったのである。
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