戦いのクライマックスは、迫力がある「信長公記」の読み下しを紹介します。 【信長公記より一文】 「…空晴るゝを御覧じ、信長槍をおっ取って、大音声を上げて、スワかかれと仰せられ黒煙り立てて、懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへクワッと崩れたり。今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れり。旗本は是なり。是れへ懸かれと御下知あり。未(ひつじ)の刻東へ向かってかかり給う。始めは3百騎計り真丸になって義元を囲み退きけるが、2・3度4・5度還し合せ合せ、次第次第に無人になりて、後には50騎計りになりたるなり。信長馬より下り立って若武者共に先を争い、つき伏せ、つき倒しいらったる若者ども、乱れかかりて、鎬を削り鍔を割り、火花を散らし、火焔をふらす。然りと雖も、敵味方の武者、色は相まぎれずここにて御馬廻り、御小姓衆歴々手負い死人員知れず、服部小平太、義元にかかりあい、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐り伏せ、頸をとる。…運の尽きた験にや、おけはざまという所ははざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所(難儀)という事限りなし。深田へ逃げ入る者は、所さらず這いずり廻るを、若者ども追い付き追い付き2つ3つ宛、手んでに頸をとり持ち、御前に参り候…もと御出の道を御帰陣候なり」 戦いより48年後に行われた慶長検地により、田楽坪の西側に2町歩に近い本田のあったことが確認されています。「信長公記」にある義元最期の地付近の深田がこれであると思われます。