桶狭間合戦始末記

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- 以下 2,3 間題点を検証してみる。
イ) ロ)
これからの桶狭間突入戦は、織田家の興亡をかけた一戦である。己の目で簗 天保年間の『鳴海絵図』を見るに、善照寺砦の北、東は大きな田面となって いて、同道は畦道しかない。(本田となっているので、恐らく合戦当時も同面
田情報の真偽の程を確認したかった。
積とはいえないが、かなりの田面をなしていたであろう。道のない田面を馬廻 りを主体とする兵力が通過して、北にある鎌倉街道に出、大回りして南進、桶 狭間に出るには時間がかかりすぎる。今川本隊は午の小休止である 13:00 を過 ぎれば、大高方面に出発する可能性が多分にある。遅くとも確実に 12:30 まで には、攻撃態勢を整える必要がある。また、鎌倉街道に出ることは、沓掛に通 じ、今川軍或いはそのスパイに遭遇する恐れがあるなど、かなりの危険要素が ある。佐々、千秋軍の陽動作戦により、今川前衛隊の目は、そちらに向けられ ている筈。中島砦より、折からの干潮の扇川 (南岸の堤防が高く、北岸の堤 防が低く作られていた)を通り、山陰に入った処で丘に上がり、山間の道を抜 けて行けば、40 〜 50 分で桶狭間の山麓に着ける。この方が確実と考えたので はないか。
四、織田信長中島砦より桶狭間に進撃
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前田利家等馬廻りに進入路の開拓を命ず。 出発に当たり、将兵の志気の鼓舞と、突入時の注意をする。信長公記―「アノ武者 等は」と……桶狭間の西の山に着陣する今川本隊の前衛隊を指差しながら……「宵 に大高城に兵糧を入れ、 寝ずに丸根、 鷲津両砦を攻撃して疲労している武者である。 こちらは新手である。恐れるに足らず。運は天にあり。……(アノ武者等は松平元 康軍であるといっているのである。信長は情報で目前の敵は今川本隊と知っている 筈である。承知の上で、我将兵を奮起させる為に言ったのか、その点が不 る) 次に、 「敵が懸かってくれば引け、敵が退けば追撃せよ。(ゲリラ戦)首を取るな。 突き倒してどんどん進め。此の戦に参加した者は家の面目であり、末代にその高 名を残すことになる。只励めよ」と訓示をしている。ここで注目すべきは、 「敵が 攻撃してくれば退き、後退すれば追撃せよ」と、柔軟な遊撃戦の手法を命じてい ることである。この段階では、今川義元の首を取ることは考えていなかったので ある。その頃、西南の空に黒雲が沸き立ち、ポツポツと雨が降ってきた。 扇川から陸に上がり、神明の山間に入り、現在の天神山の北、東陵中学の付近から 名鉄有松駅を通り、はへ山の山麓に沿って武路山の谷間(釜ケ谷)に至り、今川本 陣突入の機を窺う。 明であ
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