桶狭間合戦始末記

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- 方の武者、色は相まぎれず。爰にて御馬廻、御小姓衆、歴々手負、死人員を知 らず。服部小平太、義元にかかりあひ、膝の口切られ倒れ伏す。毛利新介、義 元を伐臥せ首をとる……運の尽きたる驗にや。おけはざまと云う所は、はざま くみて、深田足入れ、高みひくみ茂り、節所と云う事限りなし。深田へ逃入る 者は所をさらずはいずりまわるを、若者ども追付き々々、二つ、三つ宛手々に 首を取り持ち、御前へ参り侯。首は何れも清須にて御実験を仰出だされ、義元 の首を御覧じ、御満足斜めならず。もと御出で候道を御帰陣候なり」 ロ) 当時の作戦の慣例として、総大将は馬廻りに護られて第一線の 700 〜 800m 後方に在って指揮をとっていたといわれる。義元の塗輿を発見した時、義元近 しと、間髪を入れず本陣突入の命令を変更できたのは、常識をこえて信長が先 頭にあったからでこそ、速やかなる対応ができ、義元の首をとることができた のである。それが慣例どおり信長が、後方 700 〜 800m に居たとしたら、果た して義元の首をとる機敏な行動がとれたかどうか疑間である。義元は 300 名の 旗本に守られながら、大高、或いは沓掛城に逃げ得たかも知れない。
今川義元最後の地田楽坪
(梶野一家蔵)
六、織田信長の勝因
1.戦意
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織田側は、織田氏の興亡にかかわる戦として、決死の馬廻りを中核とした部隊の戦 意極めて高いものがあった。出陣の時、信長が舞った「人間 50 年下天のうちをく らぶれば夢幻の如し…」で、その心意気がうかがえる。
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