桶狭間合戦始末記

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今川側の軍隊は、数こそ多いが、旧体制の方法により集められた寄合急造軍隊であ り、組織力も戦意も乏しかった。今川義元自身、今尚中世的な氏族権威を払拭で きない人物であった。 「余が 2 万 5 千の大軍を率いて行けば、尾張の大うつけは、 我が膝下に額づくであろう」ぐらいの認識で駿河を出発していたであろう。その ことは、ピカピカの塗輿に乗って指揮をとっていたという、その慢心が油断を生 んだのであろう。これでは、軍団の戦意もあがる筈がない。多くの本は、桶狭間 山上で、近郷の庄屋の祝酒を飲んで浮かれていたと言う。筆者はこの事は、あり 得ないと否定するものだが、義元の油断のあったことは否定できない。
2.戦術
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信長は今川の 2 万 5 千の大軍をなるべく分散させることを一つの目標にしたよう で、丸根、鷲津を前哨戦として、その間に、中島、善照寺、丹下の各砦に、信長 本隊が加わり、最後の抵抗線として決戦を挑むとの流言を飛ばしている節がある。 その為か、今川軍は 1 万ぐらいの兵力を、大高方面に先行させている。又、知多 方面の水野軍に向かう必要もあり、本隊は後方隊(小荷駄隊)を加えて 5,000(半分 は農民)と手うすになり、これも油断か、良い参謀がいなかったのか、本陣の桶狭 間山は、その前衛の陣と中間に長い深田、池沼、湿地帯の在る為、結果的には、 本陣は山頂に孤立した状態であった。兵要地誌の調査不十分であったことは否め ない。この弱点を織田軍に衝かれたのである。この事は、江戸時代の史記『武徳 篇年集成』も指摘している。 信長は「今川本陣が桶狭間山に休息する」との情報を得るや、一点集中攻撃作戦を 成功させるため、部将等にも己の決意を秘匿し、有無を云わせぬ時間刻みの厳し い行動に徹した。 義元には、太原雪斎という軍師が側近に在って、領国の政治、経済、軍事一斉を指 揮していた、有名な甲、相、駿三国同盟も、天文 15 年春の三河掃攻も皆雪斎の指 揮したものである。恐らく、尾張進攻も雪斎のシナリオの一環であったと思われ るが、雪斎は夢半ばにして弘治元年(1555)死亡している。(合戦 5 年前)今川義元 は羅針盤を失ったようなものであった。この雪斎に替わる名参謀がいなかった事 も悲劇の一つの要因であろう。武田信玄の名参謀といわれた山本勘助が『甲陽軍 鑑』に次の様な予測をしている。 「雪斎義元公介添えに御座ありて、公事沙汰万事 の指し引き、あさからざる故……末々は京迄も義元公御仕置きなるべしと各々風 聞にて候へ共、我等共は一段あやうく存知奉る。いはれは雪斎明日にも遷化にお いては、家老衆のさばきよくとも雪斎と申す物知り、さばきよりおとるなりと諸 人かろく存ずべし。さありて雪斎の如くなる長老をまた尋ね給はじ。今川家の事 忝く皆坊主無くしてはならぬ家と、諸人思い候上様に批判申さば扨て、以来あや うき事なりと申し上げた……」と。 雪斎が死ねば、今川家は滅ぶといっている。名将との誉れ高い義元も、始めての
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