桶狭間合戦始末記

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- 馬廻りの主な人 柴田勝家・佐久間盛重・佐久間信盛 前田利家・佐々成政・毛利義勝・川尻与兵衛・服部小平太・生駒勝介・池田恒興・ 水野帯刀・丹羽長秀・津田左馬之助・飯尾尚悟・中河重政・蜂谷頼隆・猪子次左衛門 ・千秋秀忠・佐々政次・野々村三十郎・岩室長門守・長谷川喬介・加藤新三郎 毛利河内・木下雅楽助・中野金右ヱ門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼 人
二、今川義元尾張進攻(何故尾張へ進攻したか)
1.上洛説
衰退した足利幕府を復活するため上洛中、桶狭間で織田信長の奇襲に合い、武運つ たなく討ち死にしたと言う説。 イ) 上洛する意図であれば、幕府関係者、朝廷、公卿衆に事前の連絡が色々とな されているはずであるが、それらしい形跡がない。義元の母は、御中門の出身 であるため、また、富士見物で、駿河に下った公卿は多く、義元は公卿側にも いろいろなつながりがあったが、事前工作が行われていないことは、この尾張 進攻では、上洛までは考えていなかったのではないか。 ロ) 2 万 5 千の大軍の遠征は、後方支援が極めて重要である。その見通しが立た ねば、上洛は不可能であり、且つ遠征軍の大部分は、農民である。一秋の収穫 を無視した遠征は、駿遠の生産力を下げ、士気の低下は著しくなるであろう。(2 万 5 千の隊、兵;米 6 合/1 日、馬;大豆 2 升/1 日、1 日米、大豆で 350 俵以上は 必要)上洛するならば、通過する領主の協力がなければ、その収集は不可能で ある。協力している形跡がないと言われている。
2.三河安定説
西三河が不安定であった。それを安定するためには、隣接する尾張、特に、大高、 鳴海を確保しておく必要があった。永禄 13 年 5 月 8 日は、義元は三河守に昇進した と言われている。よって、三河安定が必要であったという学者もある。
3.尾張制圧説
天文 21 年父信秀死亡、3 月、万松寺において葬儀。 来賓、親族、家臣等数百名が正装で威儀を正して居並 ぶ中、遅れて来た喪主信長は、常着のまま現われ、正 面に進み、抹香を手掴みにするや、父の位牌にパッと 投げつけたという。前からの奇行と合わせて、信長は 「大うつけ者」のレッテルを多くの者に裏付けた。尾
鳴海城趾
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