桶狭間合戦始末記

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- 張の将来を不安視する者も出てきた。第一に笠寺の城主戸部新左衛門は、今川に通ず るようになった。第二に鳴海城主山口左馬之助父子も信長に悲観して、大高城、沓掛 城を誘って今川側に寝返った。今川は、笠寺、鳴海、大高、沓掛城に、夫々今川軍部 隊を入れた。戸部と山口父子は、後刻、信長の巧みな謀略によって、義元に刺殺され てしまった。 信長にとって、大高、鳴海地帯は、織田側の大切な経済拠点である熱田港を維持す るために、極めて重要な地域であり、また、大高、鳴海地帯が今川の勢力圏になれば、 その東にある織田の領地である知多郡との交流が遮断されることになる。どうしても 確保しておきたい地帯である。そのため、信長は大高城に対し、丸根、鷲津の砦を、 また、鳴海城に対しては、丹下、善照寺、中島の三砦を構築して、付城とした。 今川側は、大高城、鳴海城に兵を入れて、この地帯に強力な地盤を作ろうとしたが、 織田側の付城に妨害されて動けなくなった。また、強い監視のため、兵糧の入手、城 の維持も困難になってきた。今川側にとって、この地帯は、織田方を分断し、経済拠 点の熱田に出入りする伊勢湾交易の船を監視する上にも、軍事的重要地点である。三 河尾張に勢力を拡大して、念願する上洛の目的を果たすための拠点を築く上にも必要 として、永禄 2 年ごろから尾張遠征を計画、永禄 3 年 5 月 12 日、2 万 5 千の大軍を率 いて駿河を出発したのである。(塗輿に乗って出発したという) また、弥富の荷之上の服部水軍は舟千隻を大高沖へ集結させ、応援に来た。
弥富の荷之上
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服部家
5 月 17 日、池鯉鮒(知立)に到着(本隊の一部瀬名氏俊 200 桶狭間に進出。19 日の 本陣を設営する)
5 月 18 日、沓掛城に入る。午後作戦会議。同日宵、松平元康軍大高城に兵糧を入
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れる。
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5 月 19 日、早朝、織田側の丸根を松平元康、鷲津を朝比奈泰朝攻撃。10:00 陥落す る。 同日 8:00 義元塗輿に乗り 5,000 を引率、 沓掛城を出発。 大高道を通り桶狭間へ向う。 11:00 ごろ、義元、桶狭間の陣地に入る。その前に今川本隊の前衛、松井宗信軍 幕山から高根山に、井伊直盛軍幕山から巻山に西北に向け着陣。総勢約 2,000。 11:30 ごろから降り出した夕立は、西より降り始めて、12:00 ごろ、本降りとなり、 夕立の中心が桶狭間になり、稲妻が激しく光り、雷鳴の轟音四方に響く。
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