桶狭間合戦始末記

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- 三、受けてたつ織田信長
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5 月 18 日、今川軍の大軍、尾張侵入の報に、部将等、清須城に集る。 同日、夕刻、丸根、鷲津より早馬。19 日早朝、両砦が今川軍に襲撃される模様と の情報あり。 各部将、清須城に登城、信長からの出動命令を待つ。 部将たちは信長の出動命令を受けるために登城したが、信 長は雑談するだけで、今後の作戦については一言も触れな かった。夜も更けたので帰宅を促して散会になった。 その時の模様を『信長公記』は次のように述べている。 其 「 夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色々世間の御雑談 迄にて、既に深夜に及ぶの間、帰宅侯へと、御暇下さる。 家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは此れの説 なり」と書いている。
清須城趾
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この時点で信長は丸根方面からの情報のほかに、もう一つ きわめて重要な情報を秘に入手していたのである。この情報は、かねて尾三国境 に潜入させていた簗田出羽守からのもので、 18 日桶狭間山にて今川本隊の一隊が、 「 陣地を構築中である。状況判断よりして、明 19 日午の刻の今川義元の休憩陣地に 相違ないと判断される」というものであった。信長は、かねてから、今川軍が尾 張に侵攻してきた場合は、大軍の行動が大きく阻害される狭隘な山間地帯を通過 する時、その中枢部を急襲して、その命令系統を混乱させることを念頭に考えて いた。この情報は将に向こうから我が術中に入ってきたようなもの。信長の胸中 は決まった。 19 日の午、桶狭間山の今川本陣への奇襲」 「 。折角部将が登城、下令 を待っているのに、何故この胸中を話して諸将の奮起を促さなかったのか。この 当時の領主等は複雑な関係にあった。(誰についていたら安全であるか)疑心暗鬼 であった。 イ) ロ) この戦は、誰が見ても織田側に勝ち目はなかった。 保身の為の内通は、どこでも行われていた。18 日の沓掛城の作戦会議の内容 (丸根、鷲津攻撃)は、同日夕方、丸根に漏れ、宵には清須の信長に届いてい た。 ハ) ニ) ホ) 織田側は、永禄 2 年(前年)漸く尾張が統一されたところで、2~3 年前まで敵 対していた部将も同席していた。 19 日の今川本陣突入作戦、織田の興亡をかけた乾坤一擲の決戦である。この 作戦が漏れた場合は織田の将来はなくなる。 丸根、鷲津から応援を乞われれば、直ちに鳴海附近に兵を進めて、その戦況 を見て、次の策を練るのが普通の対処方法であるが、信長は一兵も動かさなか った。下手に動いては、今川方は大軍であるから、巻き込まれる愁いもあるが、 この際は既定の作戦を変更させることなく、予定通り進行させて、19 日の桶狭 間山急襲を実行したかったのである。相手は大軍である。攻撃の選択肢がい
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