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桶狭間の戦いは、永禄3年(1560)5月19日(太陽暦の6月22日)尾張の領主織田信長が、駿河・遠江・三河の領主今川義元の10倍に余る大軍を打ち破り、近世という時代の幕を開けた日本史上特筆すべき戦いです。 従来通説とされてきた迂回奇襲説は、フィクションといわれ、「信長は中島砦より桶狭間の丘陵に着陣する義元の本陣に正面攻撃を敢行」との「信長公記」に基づく新説が有力となってきました。以下この「信長公記」の語る戦況を追ってみます。 約4万5千を率いる今川義元は午前8時頃沓掛城を出発し、正午北西に向かって人数を備え、おけはざま山にて、今朝攻め落とした鷲津・丸根両砦の報告を聞きながら休息をとりました。信長は善照寺砦に到着、敵情の報告を受けた後、佐々・千秋の隊3百に、巻山・幕山・高根山に着陣した今川軍本隊の主力、松井・井伊の大軍の中央部に攻撃を命じ、自らは中島砦に移動、次いで前田(利家)、毛利等の精鋭隊に、前線での撹乱戦を命じました。これら先遣隊は、今川軍の兵力分散と、西の山中に誘い込むための決死隊であったと思われます。 この時、信長は「運は天にあり、敵が懸からば引け、退けば押せ、個々の巧名争いを避け、常に組織的に行動せよ」と訓示を行い、先遣隊が必死の戦いを挑んで、敵の目を引き付けている間に、兵2千を率いて疾風の如く駆け抜けて桶狭間の北の山麓に駒を進めました。 その頃、一天伐かに掻き曇り雷を伴った大風雨の中、山を越え狭間を抜けて、今川軍の本陣に迫りました。 戦いのクライマックスは、迫力がある「信長公記」の読み下しを紹介します。 【信長公記より一文】 「…空晴るゝを御覧じ、信長槍をおっ取って、大音声を上げて、スワかかれと仰せられ黒煙り立てて、懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへクワッと崩れたり。今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れり。旗本は是なり。是れへ懸かれと御下知あり。未(ひつじ)の刻東へ向かってかかり給う。始めは3百騎計り真丸になって義元を囲み退きけるが、2・3度4・5度還し合せ合せ、次第次第に無人になりて、後には50騎計りになりたるなり。信長馬より下り立って若武者共に先を争い、つき伏せ、つき倒しいらったる若者ども、乱れかかりて、鎬を削り鍔を割り、火花を散らし、火焔をふらす。然りと雖も、敵味方の武者、色は相まぎれずここにて御馬廻り、御小姓衆歴々手負い死人員知れず、服部小平太、義元にかかりあい、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐り伏せ、頸をとる。…運の尽きた験にや、おけはざまという所ははざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所(難儀)という事限りなし。深田へ逃げ入る者は、所さらず這いずり廻るを、若者ども追い付き追い付き2つ3つ宛、手んでに頸をとり持ち、御前に参り候…もと御出の道を御帰陣候なり」 戦いより48年後に行われた慶長検地により、田楽坪の西側に2町歩に近い本田のあったことが確認されています。「信長公記」にある義元最期の地付近の深田がこれであると思われます。 |
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