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桶狭間の戦いについて
◆ 桶狭間合戦の全貌 その 1 <第1回>
(1)今川家の成立
八幡太郎義家の孫・義康は足利の地に移り足利を名乗る。その孫・義氏 承久の乱(1221)の戦功
により三河の守護となる。義氏は吉良荘を庶子の長氏に譲り、次男の泰氏に宗家[そうけ] 足利を継がせた。(尊氏はその四代目である)
長氏は吉良を継ぎ姓を吉良としたが、早々と長男満氏に家督を譲り、西尾・今川の地に隠居、そのあとを継いだ次男の国氏は、姓を今川と名乗り、基氏に譲った。今川氏が頭角を現したのは基氏の息子らによる。 |
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西尾市今川町にて |
(2)今川氏初代 範国
頼国、範満、頼周は、建武 2年(1335)の中先代[なかせんだい] の乱(北条時行の叛乱)で尊氏側について大活躍、共に討死する。
五男・範国、今川家を継ぐ。兄らの功績により建武三年(1336)遠江国の守護となる。範国も室町幕府開府にあたり、尊氏の股肱[ここう] の臣として各地に転戦、功を認められて駿河の国の守護職も賜る。今川家は一躍二国の領主となり、天下にその名が知られる。かくして今川家は範国を初代としてその栄を誇った。
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(3)名門の誉
範国のあとは、範氏-泰範-範政-範忠と家督を継いできた。範国の次男であった貞世(了俊)は文武に優れた人で幕府の侍所頭人[さむらいどころとうにん] (御家人[ごけにん] の統制を行う役所の長官)、九州探題(たんだい) (九州の総司令官)として幕府の基盤の充実、組織の強化に多大の功績があった。
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代々の当主も東方の固めとして政治武力のみか京の公家[くげ]との交
流も多く、文化面の活躍も大きかった。特に地理的立場状況よりして幕府の関東治世の要として、鎌倉公方の監視、武力援助の大役を果たしてきた。
そのため その存在は高く評価されて「足利に子孫が絶えなば吉良につがせ、吉良も絶えれば今川につがせよ」と称えられた。 |
了俊の墓(西尾市) |
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今川氏発祥の地:愛知県西尾市今川町土井堀(マップ) |
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