桶狭間の戦い
 
 


桶狭間の戦いについて
 

◆ 桶狭間合戦の全貌 その 1 <第2回>


郷土史研究家:梶野 渡

1 今川家の発祥から合戦まで ―前 編―

(4)文明の内訌(ないこう)
 義忠の時、応仁の乱が起きた。応仁元年(1467) 義忠 上洛、細川勝元の東軍に属して戦う。義忠の上洛中、西軍の尾張守護 斯波しば勢が遠江に侵入する。京での戦いが一段落するのを待って、義忠は帰国して侵入者の斯波勢を攻撃、失地の回復を図った。
 遠州の見付城(磐田市)、横地城、勝間田城を奪還、駿府城に凱旋の途次 塩買坂(菊川市)に於て残党に不意討ちされ、不慮の討死を遂げてしまった。その時 嫡男竜王丸は六歳の幼児であった。そのため家督の相続について、一族の小鹿範満を推す一派との争いが起きた。
(この範満は五代範忠の相続の時 義忠と争った 弟の範頼の子で、竜王丸の従兄弟にあたる。母が堀越公方の重臣上杉政憲の娘であることからこの相続争いは奥の深い問題をはらんでいた)

   
横地:勝間田関係図

 義忠の正室の弟である伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が仲裁に入り「竜王丸が成人するまでの間、範満が家督を代行する」との折衷案で一応解決した。ところが竜王丸が成人となり文明十一年12月(1479)将軍義政から「竜王丸が相続することを認める」との御判教書が出されても、範満は家督を譲ることはしなかった。
 ついに長享元年(1487)、竜王丸と早雲は兵 を起こして駿河城を攻撃、範満を撃滅した。竜王丸は家督を継ぎ、やがて氏親と名乗った。これを文明の内訌と称している。その後、氏親は西の遠州へは度々、東は武蔵国へも兵を進めて領内、関東一帯の安寧に力を尽くす一方、治世でも分国統治の基本法と も云うべき「今川 かな目録三三箇条」を制定して、戦国大名の地位を確立、大永六年(1526)56 歳にて没 した。
 家督は嫡男氏輝 が相続、未だ十四歳であった。母の寿桂尼が後見者となり領国経営に寄与した。元来病弱であった氏輝は24 歳で夭折(ようせつ)した。氏輝が病弱であったため、万が一に備えて、次男彦五郎を相続要員としていたが、不思議なことに氏輝と同じ日に亡くなっている。ここに又相続 争いの悪夢が再現されることになった。

今川氏の系図 (有光友学著 「今川義元」吉川弘文館 より)



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