桶狭間の戦い
 
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<今日>
 


桶狭間の戦いについて
 

◆ 桶狭間合戦の全貌 その 3 <第4回>


郷土史研究家:梶野 渡

2 織田家の発祥から合戦まで ―前 編―

(1) 織田氏のなりたち
 織田氏の系譜は幾通りもあり、どれが正しいのか定かではない。越前織田庄・織田剣[つるぎ]神社の神官の系統であったであろうというのが大方の見方である。つまるところ、織田氏は歴史の表に出てくるような名家ではなかったということである。しかし信長という偉大な人物が忽然として現れたので、これに相応[ふさわ]しい系譜が必要となり、後世作られた。信長自身も、上洛後平家につながる系譜を作らせている。(那古野にいた頃は、高札に 藤原信長 と書いている) 織田氏は、足利幕府成立後、越前の守護斯波[しば]氏に仕え、守護代甲斐氏の下で勤めていた。

(2) 尾張織田氏
 越前守護斯波氏の尾張守護職併任の折、織田氏は守護代甲斐氏に伴われ尾張の下津[おりつ]に赴任した。 尾張の文書に織田氏の名が見えるのは、一宮市妙興寺の文書に、応永9年(1404)織田常松・常竹とあるのが最初である。応永10年(1405)常松は尾張国守護代に任じて伊勢守と名乗り、岩倉に居城する。常竹は大和守と名乗り清洲に住み、常松を助け尾張の治世に励む。応仁の乱まで両家は、何のわだかまりもなく尾張は平穏であったが、応仁の乱前後より、将軍家と斯波家の相続争いに巻き込まれ、相争う間った。応仁の乱では、岩倉敏広は西軍山名宗全、清洲敏定は東軍細川勝元側について戦った。 応仁の乱後、敏広は春日井・中島・葉栗・丹羽の上四郡、敏定は海西・東・愛知・知多の下四郡と分けて夫々の守護代となった。
織田信長系図 (横山住雄氏より)

(3)弾正忠家
 経済に明るかった信定は、西南部の津島に注目、勝幡[しょばた]に城を築いた。当時津島は牛頭[ごず]天王社の門前町であり、天王川を利用した伊勢湾交易の湊として繁栄していた。4家(大橋・岡本・山川・恒川氏)7党4姓の津島という自治組織で、がっちり固められていた。織田信定は津島衆の代表者と交渉を持ったが、てんで埒[らち]が明かなかった。業を煮やした信定は津島の街に火を放って焼くという強硬手段を採った。大永4年(1524)和睦、信定家と大橋家との婚礼が成立、以降津島の経済力の影響により弾正忠家は大いに力を蓄え、信秀の時代に那古野にまで進出した。

(4)信秀の時代
 信長の父である信秀は、文武経世に秀でた人物であったという。「信長公記」に「とりわけ器用の仁にて」と記している。時世を見るに敏く、天文7年(1538)那古野城の今川氏豊を策略で追出し、7歳の嫡男信長を入れ、後刻自らは古渡(現在東別院のあるところ)に城を構築して入城する。 天文9年(1540)安祥城を攻略、長男信広に守らせる。
天文17年(1548)岡崎・小豆坂にて今川軍と戦い敗れる。翌年今川軍に安祥城を攻められ、信広と竹千代を交換、天文21年(1552)逝去。

(5)吉法師から信長へ
 天文3年(1534)勝幡で出生、吉法師と名付けられる。幼年期は「信長公記」に「天王坊と申す寺へ御登山なされ」とある。即ち「津島神社の神宮寺に通い勉学した」ことを言っている。天文7年頃、父信秀は今川氏豊から那古野城を奪い、この城に移る。その際宿老林佐渡守、平手中務丞、青山与三右衛門、内藤勝介を守り役として吉法師を預ける。
天文10年頃(1541)、勝幡城より、吉法師も那古野城に入城した。その根拠は、有名な連歌師の記録に、天文13年(1544)那古野城を訪れて、信秀父子に面接した様子が書かれていることからである。(織田信長の系譜 横山住雄氏)したがって信秀の古渡城入城は天文14~5年であろう。「信長公記」に「吉法師殿十三の御歳、林佐渡守・平手中務等御伴申し、古渡の御城にて御元服、織田三郎信長と進められ、御酒宴御祝儀斜めならず」とあるが、天文15年(1546)のことである。 翌年平手中務等を率いて、三州吉良大浜に初陣の軍を進め、所々に放火、当日は野営、翌日那古城に帰還。天文18年(1549)平手中務(政秀)の仲介により、信長と美濃の斉藤道三の娘お濃との婚約が決まり、暫く尾張と美濃の間は静かになった。 「信長公記」はこの後に、かの有名な「大うつけ」について書いている。(つづく) 

     
  勝幡城跡(稲沢市)   津島神社(津島市)  
         
     
  蔵のあるまち(津島市)   那古野城跡(名古屋市)  



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