桶狭間の戦い
 
 


桶狭間の戦いについて
 

◆ 桶狭間合戦の全貌 その 2 <第3回>


郷土史研究家:梶野 渡

1 今川家の発祥から合戦まで ―後 編―

(5)花倉の乱


 花倉の遍照光寺の僧であった三男・玄広恵探と、富士郡善得寺の僧であった五男・栴岳承芳(後の義元)との相続争いであった。玄広恵探は庶子であり、支持するのは母方の福島左衛門を主とする少数派であった。
 一方の栴岳承芳は、正室寿桂尼の子であり芳菊丸と云っていた幼児より、智謀に優れたもり役九英承菊(後の太原雪斎で、氏親が三顧の礼を尽くして迎えた)が居り、代々の今川家重臣の殆どは承芳派であった。
 天文五年六月(1536)恵探は花倉城で兵を挙げた。しかし、 鎧袖一触[がいしゅういっしょく]、承芳方の岡部親綱の攻撃に敗退、近くの瀬戸谷で自害した。この争いを花倉の乱と称している。

(6)桶狭間合戦までの 今川義元の動き

イ. 三河へ進出
・天文五年八月、承芳は 還俗[げんぞく]して家督を相続、
 義元と名乗る。
・天文六年見付城の堀越氏謀反[むほん]、兵を進めて鎮圧する。
・天文八年より領内の検地を始める。
・天文十五年(1546)三河岡崎の松平広忠、
 応援を求めて来る。
 乞う応援を口実に三河に兵を進める。

 
善得寺跡(富士市)
 
花倉城跡(藤枝市)
 

 同年今橋城(豊橋)の戸田宣成を攻める。
・同十六年(1547)田原城の戸田宗光を攻撃。
・同十七年織田信秀軍と岡崎の小豆坂で戦い、これを破る。
・同十八年安祥城を攻撃、城主織田信広を生け捕り、
 人質となっていた松平竹千代(後の家康)と交換する。
 以上三河での戦の指揮は雪斎が行っていたと云われてい
 る。

 
小豆坂古戦場跡(岡崎市)
 
 
◀ 安祥城跡(安城市)
 

ロ. 駿甲相三国同盟
天文二十一年(1552)義元の娘、信玄の嫡男義信のもとに嫁ぐ。同二十二年正月信玄の娘、北条氏康の嫡男氏政と婚約。同二十三年二月北条氏康の娘、義元の嫡男氏真に嫁ぐ。かくして三国は、下図の様に同盟条約を結ぶ。

ハ. 尾張進攻の密談

弘治二年(1556)四月今川義元は源氏の流れである吉良義昭、斯波義銀、石橋氏と弥冨・荷の上の服部左京之亮等を上野原(豊田市)に集めて密談、尾張進攻を画策した。挙兵直前に信長の知るところとなり斯波、吉良、石橋は国外に追放される。

二. 今川義元朱印状

今川義元、弘治三年十二月三日、成海大明神・八幡社神田を安堵する朱印状を出す。

   
今川義元朱印状


ホ. 氏真に家督を譲る

義元は三河安定に専念するため、弘治三年~永禄二年の間に氏真に家督を譲る。

へ. 三河寺部城攻撃

永禄元年三月、織田側の寺部城を攻撃する。松平元康の 初陣[ういじん]となる。

ト. 七ヶ条の軍令を発令

永禄二年三月七ヶ条の軍令を出して、近い戦いに備えた。

チ. 軍事物資の調達

同年八月、駿府の皮革職人等に急ぎ用につきとして来年分の 滑[なめ]し皮、 燻[いぶ]し皮の納入を命じている。

リ. 大高城に兵員・兵粮を入れる

同年八月、朝比奈泰朝に尾張大高城在城を命じ、同年十月奥平、菅沼氏に同城へ兵員・兵粮を入れさせる。

ヌ. 戦勝祈願

同三年三月駿河の浅間神社に舞楽 装束[しょうぞく]を、久能寺に 灌頂[かんじょう]道具を寄進して戦勝を祈願している。

ル. 水野十郎左衛門尉に書状

永禄三年四月十二日、今川義元から刈谷の水野氏に下記の書状が来ている。
(東京大学史料編纂所)

「夏中可令進発候条(私は夏に兵を進めますから)其以前尾州境取手之儀申付(その前に尾張の国境に砦を作る役割のことを申しつけるによって)人数遣候(人数を差し出して下さい)然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言(いよいよ奮闘努力をしてください。なおこのことは大高の朝比奈備中守に連絡しておきます 敬具)

「四月十二日 義元 水野十郎左衛門尉殿」
上記の書状が出されていることは、桶狭間合戦以前に水野十郎左衛門は今川側に内通していたものと考えられる。したがって義元軍の尾張進攻の折、水野に国境へ出動して砦を構築するよう命じたのである。しかし義元の進攻の折りには出動の気配はなかった。水野氏への書状にあるとおり、大高の朝比奈には書状の内容は通報されていた筈。そうであれば鳴海城主の岡部元信にも当然知らされていたと思われる。敗戦後、岡部元信は駿府への帰路わざわざ遠回りして刈谷城を襲撃放火、城主水野の首を討ち取っている。岡部元信の胸中には、首尾一貫せぬ水野の姿勢に、武士の風上におけぬ奴と云う強い怒りがあって、これを誅したものであろう。そのことは氏真が岡部に与えた感状の中にも表れている。

 感状の文言で「鳴海城堅固に持詰段、甚以粉骨至也、・・・ 剰[あまつさえ]苅屋城以 籌策[ちゅうさく](はかりごと)、城主水野籐九郎其外随分者、数多打捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也 ・・・」と、城主水野外多数を討ち、城に放火して全焼させたのは、他に類を見ない苦労であり功績であると氏真が岡部を讃えているのは、水野氏の不信行為に対する怨念が汲みとれる一幕である。

   
今川氏真 判物


 学界では水野十郎左衛門尉は誰か、その比定に定説がない。刈谷城主であった水野信近ではなかったかの説が有力 のようである。氏真の感状では水野籐九郎となっている。

参考書籍:有光友学著 今川義元 吉川弘文館;小和田哲男著 駿河今川一族 新人物往来社

(続く)





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